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Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

アモイ旅情1


 
「アモイ旅情2」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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「海天堂構」の人形博物館内の京劇人形の写真を、
撮影したが、現地ツアーのガイドさんへ断りを、
入れてより人形が保管してある部屋で撮影をした。

だが、30分ほど保管部屋に居ても誰一人来ないので、
不思議には思っていたが、どうやらガイドは係員より、
勝手に入っては、駄目だと注意されていた。

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更新画像は、京劇の人形であるが、京劇の歴史を、
聞いてみたところ、220年ほど前からとの事だった。

日本の歌舞伎は既に400年以上なので、歌舞伎に比べれば、
それほど古い歴史ではないと思ったが、それでも220年。

清朝の乾隆皇帝60歳の誕生祝いの折に、四川や上海、
湖南や安徽、河南の地方劇を集めて、彼らの地方劇を、
競わせ、その後人気のある地方劇を融合させ京劇を作った。

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道光帝の頃には、皇族の中にもアヘンが蔓延し出しはじめ、
その頃に湖北劇団が北京に進出、安徽省発祥の劇団も、
北京を目指し、その他の劇団にも大きく影響を与えた。

アヘンにより世の風紀が乱れ治安も悪くなって来たころ、
北京以外の劇団が濁った世を少しでも明るくしようと、
北京に集まり、地方劇は京劇として次第に人気を得出した。

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時代は、太平天国の乱などが勃発すると南方の政情が、
不安になり、何とか南方に留まっていた劇団も北京に結集。

また西太后の援助を受け北京独自の演劇として発展した。
清朝末期から中華民国の頃になると「四大名女形」と、
呼ばれた4人の俳優が京劇に革命をもたらした。

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「アモイ旅情3」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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アモイからコロンス島まで船に乗り渡って来た。
「海天堂構」の人形劇を見ている間に京劇の人形を、
撮影しただが、上の画像は三国志の武将の関羽である。

三国志の中で人気があるのは諸葛孔明・劉備玄徳。
次に人気なのは、武将の関羽であろう。

京劇での関羽役は、生(ション)と呼ぶ男役で武人や、
英雄は武生(ウーション)呼ばれ、その中でも紅生と呼ぶ。

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また紅生(ホンション)と呼び専門の役者が演じる。
関羽を演じる役者はその顔に黒子(付けひげ)をつける。

生(ション)は男役で、老生と呼ぶ善良な中高年の男役。
付けひげを着けるが、ひげの色(黒、灰色、白)で年齢を表す。

武生は武人や英雄の男役だが、立ち回りを専門とする男役。
小生は若い色男役。ひげは着けない。京劇でよく見かけるのは、
背中に旗を挿しているが、1旗で4騎の軍勢を表している。

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旦(ダン)は女役で、老旦と呼ぶ老女役。青衣と呼ぶ女役。
花旦と呼ぶ若い女役。また立ち回りをする女役を武旦と呼ぶ。

浄(ジン)は凶暴な性格の男役で「花瞼」と呼ぶ瞼譜を使う。
瞼譜とは歌舞伎で言うところの隈取の事をいう。

正浄は男役で豪傑な性格の男役。副浄は地位が高く、
性格が凶暴な男性の役で黒色系の隈取りを見てわかる。
京劇の三国志で言うならば曹操や張飛が副浄にあたる。

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丑(チョウ)と呼ぶのは道化役で、顔の中央を白く塗っている。
道化役は基本的に劇団長が演じる事が多いが、歌や踊りを、
主に行う文丑、戦いが主の武丑、老女の彩丑の3つの役に分かれる。

歌舞伎のことは、その昔凝ったことがあるが、中国へ来た当時は、
京劇に関しても仕事に追われ、なかなか学習できなかった。

だが、中国語の学習を始めて5年ほど過ぎた頃、京劇に関する本を、
学習したものの大まかにしか学習できなかったので後悔している。

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「アモイ旅情4」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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アモイ空港は福建省にあり、上海虹橋空港から、
1時間半のフライト時間で行けるが、自分の部屋から、
また空港での待ち時間等入れると、4時間ほど掛かる。

2002年頃までは、上海虹橋空港から帰国していた。
だが、上海浦東空港からの入国や出国には時間が掛り、
何とも虹橋空港が慣れた感じで不満を抱いていた。

人間とは不思議なもので、浦東空港からの出入国に、
慣れてしまうと、虹橋空港へ行くのにも面倒に感じた。

中国国内旅行では、ほとんど虹橋空港から出発する。
だが、敦煌や新疆ウイグル方面は浦東空港からが多い。

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その昔、旅立つ時が浦東空港からで帰りが虹橋空港と、
その事を迎えの運転手に浦東と伝えていた。

私の思い込みにより、夜遅く虹橋空港へ着いてより、
運転手に電話するが、意味不明な事ばかり言うので困った。

運転手は浦東空港に車を停めており、私は虹橋空港の、
駐車場から電話をしているので全く通じなかった。

浦東空港からは1時間以上掛かるので、結局、運転手を、
帰らせ、私はタクシーで家まで帰るという運転手にとって、
悪夢に近い、まるで私が嫌がらせをしているようであった。

写真は、上海虹橋空港の待合室とその夜アモイの、
ホテル屋上より、夜景を撮影した画像である。

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「アモイ旅情5」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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今回の福建省への旅の前に、ネットで調べた優秀ガイドへ、
メールを送り、自分自身の希望旅先をリクエストした。

メールを送っても、中々返事が来なかったが、3回目の、
メールに返事が来た。その返事の内容は、貴方は、
どのように私の存在を知り、メールアドレスを知ったか。

中国人女性ガイドの高飛車な質問内容も理解出来たので、
福建省ガイド協会へアクセスして、優秀なガイドで検索。

貴女がヒットしましたと送信したところ、どこのネットで、
そのネットのアドレスを教えてほしいと再質問メール。

半ば嫌気がさすほどであったが、相手にとっては、
それ以上に、不安材料だったことだろうと思う。

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なぜならば、ある日突然1通のメールが舞い込んで来て、
そのメールには、福建省の中で6か所ほどの観光地を、
ピックアップし、その全てに事前に連絡を取って頂き、
すべての費用を知らせて下さいとの内容だった。

そして、費用はネット銀行から、口座へ振り込むので、
口座名、口座番号等、教えてほしい旨のメール内容だった。

その女性ガイドとは、現地で1回会ったが、年のころ、
25歳ほどの女性で、ガイドの管理をしていた。

何度もメールを送り付けたが、日本人で不案内である事を、
告げてより、親切に状況説明のメールが何度も来た。

だが、福建省近くで起こった尖閣漁船衝突事件の渦中での、
メール問答なら、上手く事が運ばなかったような気がする。

写真は、アモイのホテルの屋上から、早朝撮影した。

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「アモイ旅情6」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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今回の旅は、アモイのガイドが用意してくれたツアーに、
参加したが、8日間なのでツアーと単独行を混ぜた。

現地ガイドよりアモイ大学(厦門大学)の説明を受け、
程なくして、アモイの禅寺南普陀寺へ着いた。

ガイドよりアモイの歴史などを聞いたのでまずは紹介。

アモイは福建省南部に位置しており広東省に近い。また
台湾海峡を隔て台湾と向かい合う港町で、現在問題の
尖閣諸島までには相当の距離があるがいちばん近い。

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マルコ・ポーロがアジア諸国で見聞した内容口述を、
記録した「東方見聞録」には第二のベネチアとある。

アモイの名は明代の1400年頃が起源とされ、
中国の歴史からみると610年の歴史と古くはない。

またアモイの北の泉州の港は、宋から元代に、
海のシルクロードの出発点として栄えた。

唐代中期800年頃に、アモイは新しい街の意味の、
「新城」と呼ばれていたが、明代1400年頃に、
初代皇帝「朱元璋」により「厦門城」が創建され、
以降「厦門(アモイ)」と呼ばれている。

写真は、アモイの禅寺南普陀寺の門の前に、
建つ石塔と、南普陀寺への入り口の様子である。

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「アモイ旅情7」

「中国写真ライフ」では、
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アモイは1841年アヘン戦争でイギリス軍により占領され、
また1937年日中戦争では、旧日本海軍がアモイを占領した。

日本軍は国民政府の首都南京を攻略し、中国軍は首都を、
内陸部の四川省の重慶に移し徹底抗戦を貫いた。

旧日本軍は1938年から湖北省武漢方面に大軍を集中し、
陸と海から軍需物資を輸送開始。旧日本海軍の、
支那方面艦隊は、それまでも海上の封鎖を実施。

大本営は武漢攻略作戦の政策や計画を決定した。
旧日本海軍はアモイを占領し、また陸軍も、
広東攻略を実施する拠点の港がアモイ港だった。

今、尖閣諸島沖での中国漁船と海上保安庁巡視船との、
衝突事件で、日本政府が中国漁船の船長を釈放した。

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中国では、日本の弱腰がここまでとは思わなかった。
少し強い要求をすれば、すぐに要求に応じたと書かれる。

中国はこれを機会に、日本を懲らしめるべきだと語る。
中国の強硬姿勢は、これからも拍車を架けるのだろうか。

中国の船長は英雄扱いになり、日本では各県知事が、
政府は何と情けない措置を取ったのかと不信感を抱く。

民社党内からも、なぜ釈放したのか、説明責任を掲げた。
野党は菅内閣の責任を追及し、解散へ追い込もうとしている。

中国側は、日中戦争の責任賠償を放棄し日本から賠償金を、
取っていないが、今回は謝罪と賠償を求めて来ている。

写真は、南普陀寺の境内で長い線香を火を点けている所。

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「アモイ旅情8」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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アモイにある南普陀寺という寺の名称は、観音菩薩の、
道場として有名な浙江省の普陀山の南方向にある関係で、
アモイの観音菩薩を供養する名前を南普陀寺と名付けた。

明代より南普陀寺があるが、現在のような大伽藍が、
置かれたのは、清の康煕年間であるとされる。

厦門から多数の華僑が海外に渡った歴史から、
多くの在外華僑の信仰を集めていた南普陀寺である。

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華僑とは、中国大陸・台湾・香港・マカオ以外の国家や、
地域に移住しながらも、中国の国籍を持つ漢民族のこと。

広東省で一緒に仕事をしていた中国人はシンガポールに、
住みながら、時々中国まで来ていたが、パスポートは、
中国籍でシンガポールの居住許可証を持っていた。

シンガポールへ行った折、その人の家に行ったが、
目を見張るような豪華な邸宅であった。

写真は、仏を背にして祈る人たちを撮影したが、
厳密に言えば、祈りを捧げる姿は撮影禁止である。

中国の人たちが皆一同に長いカラフルな線香を、
両手で捧げ持ち、願いを込め祈る心は皆同じだ。

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私は5年ほど前、ある施設を撮影して職務質問を、
受けたことがある。今回、日本人4人が施設を撮影し、
逮捕され拘留中だが、撮影の時期が、ずれていたなら、
私も祈りの最中を盗み撮りした罪で拘留されていたかも。

インドから中国へ伝わった仏教は最近の200年の間衰退して、
儒教の教えを根本に、道教や民間宗教が主流であった。

1954年、中国の新憲法に信教の自由を規定している。
だが、文化大革命の10年間は仏教が破壊され続けた。

現在の仏教を信奉する人たちは、年とともに増え続け、
中には、法輪講という国家から弾圧された組織もあった。

中国は、布教活動で人々を洗脳させる行動には厳しい。

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「アモイ旅情9」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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南普陀寺は福建省の四大禅林の一つで、
中国の寺院の中で僧侶の数も多い方である。

日本寺院との交流も多く、戦前の交流も多い。
現存している南普陀寺は清の時代に再建された。

境内では線香を手にした人で溢れていた。
共産国の中国にあり人の信仰心は日本以上だと思った。

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写真の大悲殿は1925年中華民国の時代に再建された。
三重の屋根がカーブを描き、そり返った造りである。

南普陀寺は観音菩薩を供養する由緒ある古い寺である。
だが、若者の多いことに新鮮さを感じた。

南普陀寺3万平方mとの説明を受けたが、3万平方mは、
東京ドームのグラウンドが1万3千mなので2倍以上ある。

南普陀寺には1925年に仏教大学が設立され、1991年に、
大学院が設立され、在校生徒は500人程が勉学に励んでいる。
また卒業生は中国の大きなお寺の管理職をしている。

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今中国で話題になっている事柄のひとつは今回の、
尖閣諸島問題だ。しかし、以前の靖国神社の、
参拝問題ほど騒いではいない。

今回の船長解放を、いとも簡単にしてしまった日本側の、
不甲斐無さを、せせら笑う人々の数が増えている。

今の中国は日本なんて怖くない。中国が優位に立っていると、
自慢げに話す中国人が多く、メールでも伺える。

私の不安は、日本が中国の要求通りに、謝罪・賠償したら、
海上保安庁が不法行為を犯したことになって、職員を、
処罰するような事になれば、日本は国際社会から孤立し、
北朝鮮は、更に拉致問題以外でもなめて掛って来るだろう。

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「アモイ旅情10」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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南普陀寺の大悲殿の脇を抜けて裏側の方へ向かうと、
地殻変動により自然に岩が組み合わされた下を潜った。

少し進むと、自然ではなく人工的に作られた浅い、
池風の水槽があり、その中に石灯篭が置かれていた。

そして向い側の岩肌には文字が彫られていた。
その近くには中国の硬貨が祈りの為投げ込まれていた。

参拝者や観光客が硬貨を投げ入れ祈りを捧げる姿も、
見られたが、岩に彫られている文字は、南無阿・・・。

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日本で石燈籠といえば、神社の参道に立っていたり、
仏閣や庭園の添景として置くものなどいろいろある。

今では日本の伝統的な風景に融け込み癒してくれる。
石灯篭のルーツを求めると、中国で仏前の献灯に使われ、
朝鮮王朝から奈良時代に日本に伝わって来たものである。

形は八角や六角が多く、四角や稀に三角の灯篭もある。
石燈籠は今でこそ、観賞用として置かれているが、
室町時代頃には火を灯し照明としても利用されていた。

元々、仏教寺院の仏像を安置する仏堂であった。
仏教の経典には、仏に燈火を供えると功徳があると説かれ、
石燈籠には、仏への礼拝や供養の意味が込められていた。

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飛鳥時代、石燈籠は当時仏教盛んな朝鮮半島の百済から、
仏教美術品として日本に伝わった。当時の飛鳥朝廷は百済と、
交流が盛んで、日本最初の仏教寺院の飛鳥寺を造営した。

飛鳥寺の正面入口両脇に安置されたのが石灯篭の始まりであり、
現代の電気の光のような明るさでは無いにしろ、小さな仏像を、
照らすには菜種油に浸した心で十分すぎる明るさだった。

中国から朝鮮王朝、そして日本へと伝わった石灯篭は、
日本にて独自の美術品として変化を遂げていった。

写真は、岩に掘られた「洗心」の文字であるが、日本人なら、
「心を洗う」と読むのではないだろうか?「洗心」の意味は、
「改心し、過ちを改めて更生する」とほぼ同じ意味である。

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「アモイ旅情11」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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アモイの南海岸にある南普陀寺の写真を公開。
写真の岩に彫られた「佛」という大きな文字。

上の写真では群衆を避けて「佛」の文字のみ撮影。
下の写真の左側に祈りを捧げる台が置かれている。

参拝者はこの祈りの台の手前に備えられたソファの、
上にひざまずき、頭を深々くもたげ祈りを捧げていた。

刻石の大きさは、高さが4mほどあり、清朝の僧侶が、
書いた「佛」の題字を彫り、金の塗料で塗られている。

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観音像が置かれているわけでもなく「佛」の題字が、
礼拝の対象になっており、この岩の周りには、
たくさんのコインが投げ込まれていた。

南普陀寺は観音菩薩を供養している寺で、
四天王が安置されている天王殿や本堂の大雄宝殿、
千手観音が安置されている大悲殿など、撮影をしようと、
カメラを構えてファインダーを覗いた途端に、
撮影禁止とレンズを覆われて撮影出来なかった。

下の写真は本堂の屋根に置かれた龍の瀬戸物の装飾品。

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「アモイ旅情12」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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アモイの南普陀寺の写真も終りになった。
写真は南普陀寺の後側に造られた歩道の両脇の、
岩に文字を彫ったモニュメントなどが配置されていた。

その中に写真のような向い合う子供獅子像と、
後側の岩に彫られた「円通」の文字を撮影した。

「円通」の意味は、考え方ややり方に柔軟性があり、
融通性があるということが円通の意味である。

また、性格が円満で自分一人の考えや意見に、
こだわりを持たずに、融通を効かせることが大切。

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仏法での「円通」は、仏道の真理を悟り開いて、
道理を会得することに徹底し、考え方や行動に、
差別やこだわりのないように努めるというもの。

「円通」は、事の真理すべてに行き渡っていることで、
修行者や仏・菩薩の知慧がすべてに及んでいることをいう。

「円通」の文字を見て、すぐに思い出したのが、
雲南昆明の「円通禅寺」で記憶に新しい。

今日は、10月1日であり、中国国慶節(建国記念日)である。
1949年10月1日、中華人民共和国の建国を毛沢東が宣言した。
毎年10月1日には、天安門の壇上の映像がテレビで放送される。

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昨年の国慶節では、建国60年記念軍事パレードが行われた。
最新式の兵器が陸続と現れ、二日後、中国人より、中国は、
日本に勝った!すごいと思わない?と自信満々に言うので、
あの兵器の一部でも皆に還元して暮らしが少しでも楽になれば、
凄いと認めると話した所、皆からの反論は何一つ無かった。

尖閣諸島問題の波紋も、ようやく落ち着きを見せてきた。
中国政府の意地だけで、一般庶民に多大な影響を及ぼした。

中央首脳が失脚を恐れて、無理難題の要求が国内に広まった。
だが、やっと独裁的政治判断要求が恥ずかしくなったのだろう。

暗い過去があり、中国は日本を好きになれないかも分らないし、
今の政権にはしっくり来ないかもしれないが、お互いの国益を、
考慮し、持ちつ持たれつの外交を行ってもらいたいと思う。

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「アモイ旅情13」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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アモイから30分ほど南下した所に胡里山砲台がある。
アモイの砲台と聞くとアヘン戦争を連想してしまう。

清朝のアヘン輸入禁止に対してイギリスの侵略戦争は、
1840-1842の2年間で清国が敗れ、アモイなど五港開港。

香港の領土を一部差出す南京条約をイギリスと結び、
その後、アメリカ・フランスと不平等条約を結んだ。

上の胡里山砲台の石碑は正面入り口の右側にある。

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日本が侵略戦争をする100年も前に中国は苦汁を舐め、
中国の半植民地化のきっかけを作ってしまった。

そのアヘン戦争の50年後に築かれた砲台が胡里山砲台で、
大砲は台湾を向いており、射程距離は6.5キロほどあった。

写真は、現地ガイドの女性と、下の画像はタバコ禁止と、
撮影禁止の標識だが、まだ最近まで人民解放軍が、
胡里山砲台に駐屯しており、軍事施設だった。

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「アモイ旅情14」

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胡里山砲台に設置されたドイツ製のクルップ砲。
清朝がドイツに支払った金額は、日本円に換算して、
約108億円相当を支払い購入した。

ドイツからアモイまでの輸送期間は3年を費やしたが、
イギリスとのアヘン戦争の敗北が教訓になり購入した。

アモイにクルップ砲が装備されてより発射した大砲は、
3発だったが、3発の内訳は、試射2発の大砲と、
実践では1発の大砲の合計3発のみだった。

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では、クルップ砲を本番で発射したのはアモイに攻め、
入って来た旧日本海軍の軍艦へ発射。命中したものの、
沈没までには至らなかった。

旧日本海軍は、その後アモイを占拠し広東省へ侵攻。
クルップ砲は、108億円で購入したものの結局、
3発の大砲を発射したのみで終わってしまった。

写真の移動式のアームストロング砲の方が機動力を、
発揮したとのことであった。

戊辰戦争や西南戦争の頃の日本で使われた大砲も、
アームストロング砲で機動力を発揮させ勝利した。

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ドイツから購入したクルップ砲の射程距離は6.5キロ。
今も胡里山砲台に設置されたクルップ砲はアモイの、
海を向いているが、その先には台湾がある。

1958年8月から1ヵ月半、金門砲戦が勃発し中国と、
台湾中華民国との戦争が金門島で行われた。

使用された大砲は47万発だったが、中国は国際連合より、
侵略行為と非難され、アメリカは中華民国軍に兵器を、
提供し、第7艦隊は台湾海峡へ派遣し物資の補給をした。

米中国交樹立された1979年に中国からの砲撃は停止。
21年間に及ぶ金門砲撃は停戦、現在では台湾との交流も、
深くなり、人民解放軍も胡里山砲台を一般に公開した。

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「アモイ旅情16」

「中国写真ライフ」では、
福建「アモイ」の写真を公開しています。

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胡里山砲台を見終えた後、アモイ港へ向かった。
目的は、アモイ港からコロンス島横の海峡を通り、
金門島から3キロの地点へ向かうためであった。

金門島へ行ってしまえば航路船ではないので、
領土侵犯になり兼ねないために3キロ手前までである。

私が乗る船を捜しながら歩く道すがら撮影した船。
「厦門航道管理」と書かれているが「厦門」とは、
「アモイ」の事で、「航道」とは「航路」のこと。

アモイ港へはマカオや香港、上海などや日本からの、
航路もあるが、「アモイ航路管理局」は主に、
アモイと金門島を結ぶ航路を管理している。

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まだ30年前まで中国から大砲で撃っていた海峡で、
金門島は台湾の領土であるので管理強化している。

上の写真の船の名前は「新和平」と書かれているが、
日本読みなら「新平和」である。何とか船の、
名前のように、平和外交をと願うが難しいようだ。

領土問題では、尖閣諸島問題で未だに未解決のまま。
領土問題は、一つ誤れば戦争につながってしまう。

中国は今、多額の資金援助をギリシャにするとのこと。
今後、国際社会はどうなるのか。小泉元総理時代の、
靖国参拝問題で中国は揺れに揺れた。

また近くて遠い国に逆戻りしなければ良いがと思う。

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「アモイ旅情17」

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アモイ港より金門島手前を遊覧する船に乗った。
出港してより、単調な海の景色なので、船の中では、
歌や踊りが披露されたが、写真の女性は踊り子。

早いリズムに乗り軽快にダンスをしていたが、
ジャズダンスでもハワイアンダンスでもなく、
どちらかといえばバリ島で見たダンスに似ていた。

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また女性の左腕には「尼傘?」と書かれているのか、
タトゥー(tatoo)が彫られていたが意味は分からない。

男性二人と女性二人で、男性はドラムや管楽器担当。
女性の一人は弦楽器と踊り、そして写真の女性。

船は50分ほどで目的地である金門島から300m地点へ。
アナウンスがあった方向を見ると、金門島に大きく、
「三民主義統一中国」と書かれたスローガンが見えた。

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